Golden Era
1940〜1960年代のベリーダンス業界における黄金期をさし、当時のエジプトの映画の黄金期ともかぶっています。この頃のダンサーは多くの映画に出演していて、映画の中でもベリーダンスシーンが見られます。
今回はいよいよNaima Akifです。
NAIMA AKEF (1929〜1966)ナイマ・アキフ
当時エジプトで一番有名な Akef サーカス(日本でいう木下サーカス的な?)の
Akef一家に生まれました。カイロから北に90キロほどいったアレキサンドリアに行く途中のTantというエジプト5番目の都市にすんでいました。
両親はもちろんサーカス団員でしたし、おじいちゃんが創業者でした。
Naimaは4歳からサーカスデビューし、そのアクロバティックな技で有名になりました。
ところが彼女が14歳の時にアキフサーカスは解散してしまいます。
祖父が仕事柄カイロ中にコネがあったこともあり、※Badia Masabuniが経営する有名なナイトクラブ、Casino Opera で働くチャンスを得ます。当時まれな、歌って踊れるダンサー、そして彼女のアクロバティックな技を使ったユニークな踊り方で人気を得ますが、他のダンサーたちの妬みを買い、攻撃を受けます。
(いつの時代も女子の妬みは怖い)
彼女はとてもたくましくて一人で返り討ちにしたというエピソードが残っていますが、それが原因で結局Casino Operaを解雇されてしまいます。揉め事の責任をとらされた、というところでしょうか。
その後、やはり当時有名だった Kit Kat Clubというナイトクラブで契約を結びます。
これがまさに、運命の出会いにつながります。
ここで繋がったHussain Fawzyという映画ディレクターが彼女を映画スターへと導きます。エジプトでは映画も黄金期を迎えていて、ベリーダンサーから映画スターへと昇っていきます。(後に彼と結婚しています)
20歳の時に出演した bread and saltという映画はとてもヒットしました。
1949 bread and salt
この映画で共演した歌手のSaad Abdel Wahabはエジプトの作曲家でレジェンドと言われるMohammed Abdel Wahabの甥にあたります。
この映画を皮切りに10本以上の映画に出演しています.
1957 Tamra Henna(ヘナの花) 映画のタイトル、映画中の彼女の役の名前にもなっているタマルヘナはあまりにも有名で曲調がスローなのでベリーダンスを始めて間もない頃にこの曲で振り付けを習った方もいるのではないでしょうか。私自身、入門クラスでこの曲で振り付けをしています。
この映画のNaimaが踊っているシーンの一つです。
↓↓↓
https://youtu.be/3Rij0LemYvw
この映画、アラビア語が分からなくても内容がとても分かりやすいですし、映画は2時間くらいなのですが飽きずにみれます。長くなってしまうので、映画の紹介はまた別の時にします。
ヒップワークが繊細で見とれます。奇抜な動きがないのはこの時代のベリーダンスの特徴でもありますが、見飽きません。かつ、切ない感じの表情も大好きです。
1964 彼女は2度目の結婚で授かった息子が2歳の時に育児に専念したいということで引退します。
(夫 Salaheldeen Abdel Aleem)
1966.4月23日 癌のため逝去。活動をやめてまだ2年。36歳で亡くなるなんてあまりにも早すぎる死でし た。濃く短い人生を送ったのかもしれませんが、小さな子供をのこして逝く気持ちを思うと胸がつまります。
次回のGolden Eraは私が大好きなSoheir Zakiです!
2021年05月17日
2020年10月19日
Golden era 【ゴールデンエラ】vol.2
すっかり前回から何ヶ月もたってしまいました。Golden eraの頃のダンサーさんを改めてみてみると、アクロバティックな激しい動きはないものの、シンプルで、かつセクシーだけど品がある、シャラシャラしているシミはなんとも繊細で、なんともいえないものがあります。
世界中にベリーダンスが広まった昨今、ルーツを見直し、この時代のラクスシャルキのよさが改めてベリーダンス界に広まってきている気がします。
Samia Gamal (Zaynab khalil Ibrahim Mahfuz)(1924〜1994)
カイロから南に110キロほど行ったベニスエフというところで産まれました。数ヵ月後には家族でカイロに引っ越してきます。ハンハリーリ近くに住むことになりました。【ハンハリーリはカイロにある大きな市場で観光地にもなっていますが、香辛料から、雑貨、照明、カフェ、香水、なんでもあります。もちろんベリーの衣装屋さんも!とにかくなんでもあります。ごみごみしていて迷いながらショッピングするのもこれまた楽しいです。私が最初に行ったときは小松先生と一緒でしたが、ある衣装屋さんは建物の1階から4階まですべてベリー商品が置いてあり、師匠がヒップスカーフを数百枚単位で購入していたのに驚いたのを覚えています。当時はネットのお店も実店舗も日本にはなかったですし、先生が懸命に買い付けして先生から買うしかない時代でした。】
Samiaは何年も後に当時Casino Operaなどカイロ有数の高級クラブのオーナーでもあったBadia Masabuniと出会い、Badiaのダンスカンパニーに入るよう誘われ、申し出を受けます。最初はBadiaや当時のスターダンサー、Taheyya Kariokaのもとで学んでいましたが、程なく、ソリストとしての実力を発揮し、あっというまにソロダンサーとして活躍し始めます。
習っていたバレエやラテンダンスを取り入れSamia独自のスタイルを作り上げていきました。ステージで高いヒールを履いて踊ったのも彼女が初めてといわれています。
特にfluid movementといわれる流れるような動き、それまでのスタイルとは違う、より広いスペースを使う踊り方も彼女がバレエから取り入れていったものです。
Samiaは映画にも何本も出演し活躍していきます。
↓↓これは1956年の映画 【Zenobia】の一部
https://www.youtube.com/watch?v=-IFncIT1jE8
彼女の人生に欠かせない存在がFarid El Atracheです。彼は当時の有名な作曲家であると同時に、歌手、ウード走者、俳優でもあり、彼女と多数の映画で共演しています。彼女にもいくつかの曲を作曲しています。
【私の好きなCDシリーズ、JAlilah's Raks Sharki5の2曲目はすべてMohamed Abdel Wahabの作曲だと思っていたのですが、これは4部構成になっていて1番目のZenoubaと3番目のAna Alli Wa UtiiはFaridが彼女のために作曲したものです。この間に私たちにはお馴染みのZEINAがはいってますね。】
参考までに:SAMIA's DANCE

★左がSamia Gamal. 右がTahiya Kariokaです。実は二人は10歳くらい年が離れているのですが、生まれ育った生活環境というか、境遇は似ていて、苦労して育っています。
2人とも10代からショーダンサーとなっています。
Faridとは映画の中だけでなく実生活でも恋人関係にあった二人ですが決して結婚することはありませんでした。Faridは結婚するとそのことでお互いの才能をだめにする、つまりいい関係が保てない、のように発言していましたが【結婚=生活、ですから、恋愛とは違いますよね。いつの時代もそこは同じなのですかね。。】
もちろんそれだけではなく社会的地位から、また、家もベリーダンサーとの結婚は到底認められるものではなかったからです。
それでも、彼はSamiaをとても応援していました。
1949年 当時のエジプト国王FaroukはSamiaを’エジプトの国民的ダンサー’であると声明を出し、翌
1950年にアメリカの連れて行っています。このときNYの当時はやっていた高級クラブで踊っています。
その後50歳近くになって、いったん、現役を退くのですが、その後再開し1980年代の頭まで踊りました。
彼女のカリスマ性のある踊りは映画を通してエジプトだけでなく世界中にエジプトのオリエンタルダンスを知らしめ、賞賛されることになったのです。
★私は初めて観たショー、(学園祭のサークルの発表でしたが。)でベリーダンスというものを知り、その音楽や衣装、手にはめるジル(サガート)の音もすごく胸に、というかお腹に響き、そこから数十年ですが、
現代版にいろいろアレンジされている有名な曲をたどっていくと、黄金期といわれるベリーダンサーの人生を垣間見れてますます好きになります。
師匠いわく、「ベリーダンスにはその国の、文化と歴史が背景にある、」ということを続けていく以上忘れてはいけないなと思います。
なかなか進みませんが、次回はNaima Akifです。
#Golden era#samia gamal
世界中にベリーダンスが広まった昨今、ルーツを見直し、この時代のラクスシャルキのよさが改めてベリーダンス界に広まってきている気がします。
Samia Gamal (Zaynab khalil Ibrahim Mahfuz)(1924〜1994)
カイロから南に110キロほど行ったベニスエフというところで産まれました。数ヵ月後には家族でカイロに引っ越してきます。ハンハリーリ近くに住むことになりました。【ハンハリーリはカイロにある大きな市場で観光地にもなっていますが、香辛料から、雑貨、照明、カフェ、香水、なんでもあります。もちろんベリーの衣装屋さんも!とにかくなんでもあります。ごみごみしていて迷いながらショッピングするのもこれまた楽しいです。私が最初に行ったときは小松先生と一緒でしたが、ある衣装屋さんは建物の1階から4階まですべてベリー商品が置いてあり、師匠がヒップスカーフを数百枚単位で購入していたのに驚いたのを覚えています。当時はネットのお店も実店舗も日本にはなかったですし、先生が懸命に買い付けして先生から買うしかない時代でした。】
Samiaは何年も後に当時Casino Operaなどカイロ有数の高級クラブのオーナーでもあったBadia Masabuniと出会い、Badiaのダンスカンパニーに入るよう誘われ、申し出を受けます。最初はBadiaや当時のスターダンサー、Taheyya Kariokaのもとで学んでいましたが、程なく、ソリストとしての実力を発揮し、あっというまにソロダンサーとして活躍し始めます。
習っていたバレエやラテンダンスを取り入れSamia独自のスタイルを作り上げていきました。ステージで高いヒールを履いて踊ったのも彼女が初めてといわれています。
特にfluid movementといわれる流れるような動き、それまでのスタイルとは違う、より広いスペースを使う踊り方も彼女がバレエから取り入れていったものです。
Samiaは映画にも何本も出演し活躍していきます。
↓↓これは1956年の映画 【Zenobia】の一部
https://www.youtube.com/watch?v=-IFncIT1jE8
彼女の人生に欠かせない存在がFarid El Atracheです。彼は当時の有名な作曲家であると同時に、歌手、ウード走者、俳優でもあり、彼女と多数の映画で共演しています。彼女にもいくつかの曲を作曲しています。
【私の好きなCDシリーズ、JAlilah's Raks Sharki5の2曲目はすべてMohamed Abdel Wahabの作曲だと思っていたのですが、これは4部構成になっていて1番目のZenoubaと3番目のAna Alli Wa UtiiはFaridが彼女のために作曲したものです。この間に私たちにはお馴染みのZEINAがはいってますね。】
参考までに:SAMIA's DANCE

★左がSamia Gamal. 右がTahiya Kariokaです。実は二人は10歳くらい年が離れているのですが、生まれ育った生活環境というか、境遇は似ていて、苦労して育っています。
2人とも10代からショーダンサーとなっています。
Faridとは映画の中だけでなく実生活でも恋人関係にあった二人ですが決して結婚することはありませんでした。Faridは結婚するとそのことでお互いの才能をだめにする、つまりいい関係が保てない、のように発言していましたが【結婚=生活、ですから、恋愛とは違いますよね。いつの時代もそこは同じなのですかね。。】
もちろんそれだけではなく社会的地位から、また、家もベリーダンサーとの結婚は到底認められるものではなかったからです。
それでも、彼はSamiaをとても応援していました。
1949年 当時のエジプト国王FaroukはSamiaを’エジプトの国民的ダンサー’であると声明を出し、翌
1950年にアメリカの連れて行っています。このときNYの当時はやっていた高級クラブで踊っています。
その後50歳近くになって、いったん、現役を退くのですが、その後再開し1980年代の頭まで踊りました。
彼女のカリスマ性のある踊りは映画を通してエジプトだけでなく世界中にエジプトのオリエンタルダンスを知らしめ、賞賛されることになったのです。
★私は初めて観たショー、(学園祭のサークルの発表でしたが。)でベリーダンスというものを知り、その音楽や衣装、手にはめるジル(サガート)の音もすごく胸に、というかお腹に響き、そこから数十年ですが、
現代版にいろいろアレンジされている有名な曲をたどっていくと、黄金期といわれるベリーダンサーの人生を垣間見れてますます好きになります。
師匠いわく、「ベリーダンスにはその国の、文化と歴史が背景にある、」ということを続けていく以上忘れてはいけないなと思います。
なかなか進みませんが、次回はNaima Akifです。
#Golden era#samia gamal
2020年06月30日
Golden Era 【ゴールデンエラ】 vol.1
最近富に、ゴールデンエラ【ベリーダンス史の黄金期】のベリーダンサーやそのダンス、音楽が再盛り上がりしていて(ここ数年かな)、私自身なんとなく聞いてるけど、程度だったので、少し調べてみました。ダンサーとしての力量もですが、何気に色恋が多く、何回も結婚していたり、芸能業界あるあるな感じなのかな、と思ってみたり。。幼少の不遇な生活環境を思うと、華やかでスターという表の顔とは違う、生き抜いてきた強さのようなものが根底にあるんだろうなとか、いろいろ思ってしまいました。
Golden Era
1940〜1960年代のベリーダンス業界における黄金期をさし、当時のエジプトの映画の黄金期ともかぶっている。この頃のダンサーは多くの映画に出演している。
この時代の立役者としてはずせないのが
Badia Masabni(1892−1974)
ダマスカスで生まれ、父はレバノン人、母はシリア出身。7人兄弟の一人として生まれます。
父親が石鹸工場を営んでいましたが、父親の死後、経営は傾き工場は消失してしまいます。
彼女自身、ベリーダンサーで、歌手でもあり、女優でもあり、振付もし、エンターテイナーでした。当時のベリーダンサーの世話役?元締め的な存在でもあり、そして今で言うできる女、やり手のビジネスウーマンでした。
1920年代以降次々と、キャバレー(高級クラブ)をオープンさせていきます。
その中でも1930年にカイロにオープンした
casino opera of cairo はとても有名で、ここから taheyya kariokka、samia gamalが生まれていきます。
当時の高級クラブではソロで躍らせるということはなく、、5人くらいの女の子たちがコーラスを歌っていました。バディアはその中から目を引く子を選抜し、ソロとして躍らせるようにしたのです。
それまで劇場向きではなかったRaks sharki をステージ上で踊れるような形式に持っていったのもバディアです。
1968年のインタビューがyoutubeにのこっています。て、、アラビア語なのですが。。。でもちょっとジルを鳴らす感じとか、貫禄あります。
https://m.youtube.com/watch?v=8yBO4TELvqQ
Taheyya kariokka(1915-1999)
スエズ運河近くのイスマイリヤの出身です。彼女が生まれたとき父親はすでに60を超えていたといいます。
まだ20代だった母親は父の死後彼女を異母兄弟のアフメドと暮らすよう彼のもとに送られますが、彼女は彼から奴隷のような扱いを受け、暴力も振るわれ、鎖で繋がれたりもしました。何度も逃げようとしましたが、つかまるたびにひどい仕打ちを受けました。彼女は甥のオスマンの助けで、カイロへにげ、クラブのオーナーでもありアーティストのsouad mahasenと一緒にいる事となります。彼女は彼にクラブで雇ってくれるよう何度か頼みますがsoadは彼女にとってクラブで働くことは不名誉になるからと、断りました。(キャバレーで働くことは普通の職種として考えられなかった時代で、、社会的地位は低かったです)
その後Badiaが彼女に目をつけ、自身の座に誘い、彼女はカジノオペラに出ることとなるのです。
このとき、BadhiaがつけたステージネームがTaheyya Mohamedです。彼女はすぐにソロダンサーとしてしられるところとなり、また、当時カイロで流行っていたブラジルのサンバの'Carioka'というダンスを習い、それがとても得意で評判だったことで、次第にTaheyya kariokka という名前が定着していったのです。
彼女はダンサー、歌手、女優として有名になり、数多くの映画に出演しています。
生涯を通して14回結婚しているタヒヤですが、その中には当時の有名な俳優Rashdy Abazaも含まれています。彼はsamia gamalとも結婚しています。
子どもに恵まれなかったタヒヤは女の子を養子にしています。タヒヤは後にロンドンに移り住み、1999年9月心臓発作のためなくなっています。享年84歳でした。
映画 Taht El shibak より
https://www.youtube.com/watch?v=9uII1idV4hQ&t=59s
他にも
https://youtu.be/SEGH1hCu3yc
素朴で繊細、ぎらぎらしていないナチュラルな感じがなんともいえないです。でもセクシー。
この頃のダンサーさん髪も短いですよね。周りの男子の作りこんだひげが、なんとも。
余談ですが1972年に女優のSoad Hosnyが主演している映画にタヒヤが出ています。この映画は当時めちゃめちゃ人気だったらしく、途中の52分くらいのところのhosnyがYawad ya teel の曲にあわせて踊るシーンが本当にかわいらしくて、当時のフリンジたっぷりの衣装とか、髪型など、すごく楽しめます。
私、この曲ナンシーアジュラムのだと思っていましたが、Hosnyが先でした。彼女のベストアルバムにも入ってました。
watch out for zozo
https://www.youtube.com/watch?v=V3yt7NWCmCY&t=3256s
※長くなったので、samia gamal からのお話は次回に。
#tahheya kariokka #golden era
Golden Era
1940〜1960年代のベリーダンス業界における黄金期をさし、当時のエジプトの映画の黄金期ともかぶっている。この頃のダンサーは多くの映画に出演している。
この時代の立役者としてはずせないのが
Badia Masabni(1892−1974)
ダマスカスで生まれ、父はレバノン人、母はシリア出身。7人兄弟の一人として生まれます。
父親が石鹸工場を営んでいましたが、父親の死後、経営は傾き工場は消失してしまいます。
彼女自身、ベリーダンサーで、歌手でもあり、女優でもあり、振付もし、エンターテイナーでした。当時のベリーダンサーの世話役?元締め的な存在でもあり、そして今で言うできる女、やり手のビジネスウーマンでした。
1920年代以降次々と、キャバレー(高級クラブ)をオープンさせていきます。
その中でも1930年にカイロにオープンした
casino opera of cairo はとても有名で、ここから taheyya kariokka、samia gamalが生まれていきます。
当時の高級クラブではソロで躍らせるということはなく、、5人くらいの女の子たちがコーラスを歌っていました。バディアはその中から目を引く子を選抜し、ソロとして躍らせるようにしたのです。
それまで劇場向きではなかったRaks sharki をステージ上で踊れるような形式に持っていったのもバディアです。
1968年のインタビューがyoutubeにのこっています。て、、アラビア語なのですが。。。でもちょっとジルを鳴らす感じとか、貫禄あります。
https://m.youtube.com/watch?v=8yBO4TELvqQ
Taheyya kariokka(1915-1999)
スエズ運河近くのイスマイリヤの出身です。彼女が生まれたとき父親はすでに60を超えていたといいます。
まだ20代だった母親は父の死後彼女を異母兄弟のアフメドと暮らすよう彼のもとに送られますが、彼女は彼から奴隷のような扱いを受け、暴力も振るわれ、鎖で繋がれたりもしました。何度も逃げようとしましたが、つかまるたびにひどい仕打ちを受けました。彼女は甥のオスマンの助けで、カイロへにげ、クラブのオーナーでもありアーティストのsouad mahasenと一緒にいる事となります。彼女は彼にクラブで雇ってくれるよう何度か頼みますがsoadは彼女にとってクラブで働くことは不名誉になるからと、断りました。(キャバレーで働くことは普通の職種として考えられなかった時代で、、社会的地位は低かったです)
その後Badiaが彼女に目をつけ、自身の座に誘い、彼女はカジノオペラに出ることとなるのです。
このとき、BadhiaがつけたステージネームがTaheyya Mohamedです。彼女はすぐにソロダンサーとしてしられるところとなり、また、当時カイロで流行っていたブラジルのサンバの'Carioka'というダンスを習い、それがとても得意で評判だったことで、次第にTaheyya kariokka という名前が定着していったのです。
彼女はダンサー、歌手、女優として有名になり、数多くの映画に出演しています。
生涯を通して14回結婚しているタヒヤですが、その中には当時の有名な俳優Rashdy Abazaも含まれています。彼はsamia gamalとも結婚しています。
子どもに恵まれなかったタヒヤは女の子を養子にしています。タヒヤは後にロンドンに移り住み、1999年9月心臓発作のためなくなっています。享年84歳でした。
映画 Taht El shibak より
https://www.youtube.com/watch?v=9uII1idV4hQ&t=59s
他にも
https://youtu.be/SEGH1hCu3yc
素朴で繊細、ぎらぎらしていないナチュラルな感じがなんともいえないです。でもセクシー。
この頃のダンサーさん髪も短いですよね。周りの男子の作りこんだひげが、なんとも。
余談ですが1972年に女優のSoad Hosnyが主演している映画にタヒヤが出ています。この映画は当時めちゃめちゃ人気だったらしく、途中の52分くらいのところのhosnyがYawad ya teel の曲にあわせて踊るシーンが本当にかわいらしくて、当時のフリンジたっぷりの衣装とか、髪型など、すごく楽しめます。
私、この曲ナンシーアジュラムのだと思っていましたが、Hosnyが先でした。彼女のベストアルバムにも入ってました。
watch out for zozo
https://www.youtube.com/watch?v=V3yt7NWCmCY&t=3256s
※長くなったので、samia gamal からのお話は次回に。
#tahheya kariokka #golden era